本物ユダヤ(2)失われた10支族vol.2

はじめに

アミシャブ(アミシャーブ)について

エルサレムには、『アミシャブ』(1975年設立、著者ラビ・アビハイル氏はその幹部)という名の、世界に離散しているイスラエルの10部族を帰還させるために調査する特務機関がある。

アミシャブが認める、”失われた10支族”とは、

  1) ユダヤ教を信じていること
  2) ユダヤ教を信じていない場合は、ユダヤ独特の習慣(割礼、安息日(サバト)など)を維持しているかどうか、になり、
  その他、身体的特徴、服装、語り継がれてきた伝承、などがチェックポイントとなる。

ここではこのアミシャブが認めた10支族、可能性がある10支族について調べてみました。

エチオピア ベト族

↑ イスラエルに住むエチオピア人「私たちもユダヤ人だ!」

イスラエルには現在、約13万5000人のエチオピア系ユダヤ人が暮らしている。彼らは、古代イスラエル王国が分裂したときにアフリカに移住した人々の末裔だと言われていて、「ベタ・イスラエル」と呼ばれる。

ベタ・イスラエルたちは、キリスト教徒が多いエチオピアで長年、異教徒として迫害されてきた。そんな彼らを救おうと、イスラエル政府は80~90年代に、約2万2000人をチャーター便で移住させる作戦を決行した。

だが、アフリカ系そのものの外見で、ヘブライ語を解さない彼らはイスラエルでも差別の対象だ。兵役はあるが教育や就業の面で冷遇されるため、ベタ・イスラエルの多くはスラムに暮らし、失業率は45%に上る。

そんな状況が続くなか、この4月に彼らの不満がついに爆発した。ベタ・イスラエルの若者が理由もなく警官から暴行を受けた事件をきっかけに、大規模なデモが勃発。デモ隊と警察の衝突が繰り返される様子は、パレスチナ人の抗議活動「インティファーダ」のようだった。

エチオピアというアフリカの地に根づいているキリスト教の教え。それも、古いユダヤ教的な部分を多く残している上、アフリカ独自の色彩が加えられたことで、エチオピア正教会は、キリスト教とはいっても異色の存在となっている。

木材や石といった建築材料がなかったわけではないのに、岩の地面を掘りぬこうと考えたのはなぜか? そもそもこれだけの規模、これだけ精緻なものを当時の技術力でどうやって造り上げたのか?

wikipedia

イエメンを経由して、ヨセフ族マナセ族エフライム族)がアフリカに入ったもの。イスラエル建国後にエチオピアから相当数が移住したが、それ以前には多くのユダヤ人が居住していた
一説では古代にエチオピアからジンバブエを通過して南アフリカにいった一派もあり南アフリカのレンバ族レビ族の末裔という。

アミシャーブの見解

エチオピアのベト・イスラエルは、王国が分裂した時ダン族が自ら捕囚となってエチオピアに向かった民であり、ユダヤ教の”賢人”もカバラに通じた者もいなく、成文化されたトーラーだけを守って暮らしている。(ミカ書の「足の萎えた者」(ミカ4:6)とは、口伝のトーラーをもたない彼らのことを言う) エチオピアのユダヤ人はイスラエルへの移民を開始し、すでに8万人に達している。

  * 彼らのY染色体のDNAには、普通のアフリカ人と変らないほど、A、E系統が入っている。(A3b2:40%、E3:50%、J2:5%、K2:5%、検体数22人)

ウズベキスタン  ブハラ・ユダヤ人  https://tokuhain.arukikata.co.jp/tashkent/2015/02/post_10.html

「特派員:ユダヤ人の数は?」
「250家族ですね」
 そんな風に話していると、「いやいや、アシュケナジー(セファラディムとは異なる、ユダヤ人の別のグループ)も含むと、もっといるよ」と、建物の中から出てきたおばさんが割って入ってきました。「中に入りなよ」と、今度はそのおばさんが招き入れてくれたので、建物の中に入ることができました。

(シナゴーグ(ユダヤ教会)の中に)入れさせてもらった部屋の壁には、洋服姿とウズベク風の服装の、二人の老人の写真と肖像画が掛けてありました。ウズベク風の服装の老人のほうは、見た目こそ中央アジア風ですが、「ポルヴァノフ・イスラエル・ホッジ」と、名前に「イスラエル」が入っています。「横にあるあの写真は?」と、おばさんに訊いてみると、「ダゲスタンの、山岳ユダヤ人です」ということでした。

(※特派員註:「山岳ユダヤ人」コーカサスに古くから住んでいるイラン系のユダヤ教徒の民族。1万数千人程度いるとされ、ロシア連邦ダゲスタン共和国やアゼルバイジャンなどに多く住んでいたが、ソ連崩壊後、大多数がイスラエルに移住した)

中央アジアにはかつて、「ブハラユダヤ人」と呼ばれるユダヤ教徒が数多く住んでいました。イランやアフガニスタンから移住してきた彼らは、ペルシャ語(タジク語)を話し、8-9世紀ごろから中央アジアに居住していたとされています。ソ連時代に発行されたウズベクソヴィエト社会主義共和国アトラスによると、1979年当時、ウズベキスタン全土で約9万人のユダヤ人が居住し、そのうちおよそ5万人がタシケント市に住み、市の人口の約3%を占めていたそうです。彼らの多くは商業などに従事し、財力があり、ほかの民族からは「ユダヤ人は力仕事などしない(したがらない)」といったイメージが持たれていたそうです。

wikipedia

ブハラ・ユダヤ人はペルシア語を用いていたが、後にそれはブハラ語というヘブライ語の痕跡を残したタジク・ペルシア語となった。ブハラ語によってユダヤ人たちは他のコミュニティとの交流も容易になり、ロシアによってロシア語化が行われるまでは、ブハラ語は教育にも用いられた。

ブハラ・ユダヤ人の間では伝統的に、自らの祖先をイスラエルの失われた10支族に結びつけ、紀元前6世紀バビロン捕囚からの解放以後、カナンの地に戻らなかった支族であるとしている。

ブハラ・ユダヤ人は、ミズラヒムであり、[1]セファルディムのユダヤ教である。

アフガニスタン  パシュトゥン人(パタン族)     http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/bookreview0275.htm

ハザラ地区の山岳民族アライ族は自分たちのことをバニ・イスラエルと称しているという。先祖は失われた10部族のうちのヨセフの部族である。パシュトゥン人は彼らをユスフザイ、すなわちヨセフ(ユスフ)の息子と呼んでいる。

↑ ハザラ地区の住民

 またやはり山岳民族のカラ・ダカ(現在のトルガル)地区の人々もイスラエルから来たと主張している。失われた10部族かどうかはともかく、イスラエルから移住してきたという伝説を疑う根拠はないだろう。

 チャラスとカブールの間に住む人々もイスラエルから来たと主張しているという。 

 マレソン大佐編集の『アフガニスタンの歴史』(1878)によれば、ヘラトのアブドゥラ・ハーンやフランスの旅行家ジャン修道士、ウィリアム・ジョーンズ卿らはアフガニスタンの人々がベニ・イスラエル、すなわちイスラエルの失われた10支族の末裔であると認めているという。

 フェリエールの『アフガン人の歴史』(1858)によれば、ヘラトのアブドゥラ・ハーンはつぎのように主張している。すなわちマリク・タールート(サウル)には二人の子供、アフガンとジャールートがいた。このアフガンが族長である。

 ヘラトのハワジャ・ニマトゥッラー著『マフザニ・アフガニ』(1018)によればアフガン人の系譜はヤコブ・イスラエルにたどることができる。ヤコブの息子たちから10支族を含む12部族が派生しているので、アフガン人はイスラエルの失われた10支族の末裔ということになる。また別の章ではタールート(サウル)にまでさかのぼることができると述べている。

 グラーム・アフマド自身は、アフガン人の由来はインドのラジプート人にイスラエルの人々が融合したものではないかと推測している。

 しかし言語学の発展に伴い、近年にいたってはアフガン人イスラエルの失われた10支族説は影をひそめるようになった。イスラムとユダヤの対立激化もその傾向に拍車をかけることとなった。だがそれでも、この説が永遠に消えてしまうのは惜しいことだと私は思う。

アフガニスタンとパキスタンに多いパシュトゥン人とは・・?

紀元前6世紀には既にこの地域に居住していたバクトリア人も、パシュトゥン人の起源であるとする主張があったり、パシュトゥン人は、イラン系祖先の一つ「スキタイ人(紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけてウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧騎馬民族)」の現代子孫の一部ではないか、という主張も存在します。

他にも歴史家の中には、パシュトゥン人はカンダハル地域やスライマーン山脈周辺に紀元前に入植し、およそ1000年前から拡大していったとする人々もいます。いずれにせよ、パシュトゥン人の起源は、この地域に古来から住む人々であるというのは共通した認識だと言えそうです。

ちなみに、イスラム教がこの地に伝えられる以前のパシュトゥン人は、ゾロアスター教、仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教などと親密な関係にあったとされています。

アミシャーブの見解

パタン族の人口は約1500万人で、大部分はアフガニスタン(800万人)とパキスタン(1000万人、国境付近の200万人は遊牧民)に住んでいるが、一部はイラン、インドなどにもいる。外見上ユダヤ人に似ていて、アミシャブもこのパタン族について特に重要視している。アフガニスタンにおけるパタン人の居住地域はアフガニスタンの国土の半分にも及ぶ。
  パタン族は、ルベン、ナフタリ、ガド、アシェル、ヨセフの息子など、失われた支族の部族名を持っている。(ラバニ族=ルベン、シンワリ族=シメオン、レヴァニ族=レビ(レヴィ)、ダフタニ族=ナフタリ、ジャジ族=ガド、アシュリ族=アシェル、ユスフ・ザイ族=ヨセフ、アフィリディ族=エフライム)
  また、彼らの伝承によれば、彼ら自身が「バニ・イスラエル(イスラエルの子ら)」であるという。パタン族は、イスラム教徒(スンニ派)に改宗しているが、旧約聖書を持ち、生後8日目の割礼(cf.イスラムは8日目ではない)、フリンジ(ふさ)のついて衣類、サバト(安息日)、ヘブライ語の名前(イスラエル、サムエル、ガブリエルなど)、食物の清浄・不浄の区別、門柱に血を塗る、贖罪の山羊などの、典型的なユダヤの慣習を持っている。

ビルマ(ミャンマー) カレン族 http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/077karen.htm

カレン族に先祖代々伝わるヤハウェ信仰
ミャンマー(旧ビルマ)のカレン族は、創世記の記録に
驚くほど似通った記憶を、先祖代々言い伝えてきた。


カレン族の人々(イネの種まき風景)。

 東南アジアのミャンマー(旧ビルマ)に、少数民族カレン族がいます。約一五〇万人からなる彼らは、先祖代々言い伝えられてきた神への信仰を持っていますが、その信仰は多神教ではありません。唯一神信仰なのです。

彼らは唯一神「ヤァ」を信じる

 しかも、彼らはその神を固有名詞で呼び、「ヤァ」と呼んでいます。これは聖書に啓示された神の御名ヤハウェの短縮形「ヤハ」(ヤァ)と同じです。
 たとえば、聖書に出てくる「ハレル・」は”ヤァをほめよ”の意味です(ハレルは、ほめよの意)。また旧約聖書・詩篇一一八・五の、
 「私はを呼び求めた」
 の「主」のヘブル原語には、ヤハウェの短縮形ヤァが使われています(そのほか詩篇六八・四、一八)。「太郎」や「花子」が個人の名であるのと同じく、ヤハウェ、ヤァは、真の御神の固有の御名なのです。
 ミャンマーのカレン族は、自分たちの民族が始まった時以来、ずっと聖書の神の御名ヤァと同じ呼び名で、彼らの神を呼んできました。
 彼らは、聖書を持っていたわけではありません。彼らの信仰は、先祖から代々なされてきた口伝によるものなのです。しかし、韻律を含んだ詩歌の形で覚えやすいようにして、太古の昔から唯一神信仰を伝えてきました。
 世界の多くの民族は、もともと先祖が持っていた唯一神の信仰を、やがて多神教への堕落によって失っていきました。しかしカレン族は幸いにも、先祖伝来の唯一神信仰を、世界でもまれに見る純粋さをもって代々保持してきたのです。
 カレン族に伝わる詩歌には、たとえば次のようなものがあります。

 「ヤァは永遠
 その生命はとこしえである。
 死ぬことなく、永遠に生きておられる。
 偉大なそのご属性は完全
 永遠から永遠まで、彼は死ぬことがない」。

 次の詩歌には、ヤァが宇宙の創造者としてうたわれています。

 「誰がはじめに宇宙を造ったのか。
 ヤァがはじめに宇宙をお造りになった
 ヤァがすべてを定められた。
 ヤァは人知を越えたおかたである」。

 さらに、神が人を創造されたこと、また人が神を信ぜずに堕落したという記憶も、次の詩歌に表現されています。

 「ヤァは全能
 しかし私たちは彼を信じなかった。
 ヤァは大昔に人を創造された
 彼は全知のおかたである。
 ヤァははじめに人を創造された。
 彼は今に至るまで、
 すべてを知っておられる。
 子たちよ。孫たちよ。
 地には、ヤァの御足が置かれている。
 彼はすべてを見通される。
 彼は私たちのすべてを
 知り尽くしておられる」。

 とくに次の詩歌は、まさしく旧約聖書・創世記一~三章を思わせます。

 「はじめにヤァが宇宙を創造された。
 彼は食べ物や飲み物も造られた。
 彼は”試みの木“を生えさせ、
 細かいご命令をお与えになった。
 悪魔が二人をだました
 悪魔は、”試みの木”の実を
 彼らが食べるように仕向けたのである。
 二人はヤァのご命令に従わず、
 ヤァを信じなかった。
 彼らが”試みの木”から食べたとき、
 人類に病・老・死が入った」。


カレン族はヤァ信仰を先祖代々言い伝えてきた

 さらに、一九世紀末に三〇年間ほどカレン族の間に住んだアロンゾ・バンカーという人が、次のような興味深い記録を残しています。それはジャングルの中で夕暮れ時に持たれる、典型的なカレン族の集会の様子に関するものです。

 「白髪の長老たちが、ヤァの教えを語り始めた。その光景のおごそかなことは、とても言葉では表現できない。
 子どもたちも、緊張した面もちで聞き入っている。まるで磁石のように話に引き寄せられている。
 しばし沈黙があったかと思うと、炎の中に竹が張り裂ける音が鳴り響く。すると年老いた村の預言者が立ち上がり、祝祷のときのように手を大きく上げて言った。
 『子たちよ。孫たちよ。はじめにヤァは、カレン族をこよなく愛された。しかし、先祖はヤァの教えに背いた。その結果、私たちは今日のように苦しんでいる。
 人は、のろいのもとに置かれている。私たちは苦しみの中にある。そして(真の神について教える)本も、私たちのもとから失われてしまったままだ』。
 このあと老預言者は顔を上げ、大きな希望に輝いて言う。
 『しかしヤァは、再び私たちをあわれまれるのだ。再びこよなく愛して下さる。ヤァは私たちを救って下さる。・・・・』
 老人はさらに、先祖からの言い伝えを雄弁に語る。
 『ヤァは、アナイとエゥ(聖書におけるアダムとエヴァ)を造り、彼らをに置かれた。ヤァは彼らに言われた。
 「わたしは園に七種の木を生えさせた。それらは七種の・・・・実を結ぶ。
 それらの中に、あなたがたが食べてはならないものが一つだけある。・・・・もし食べるなら、あなたがたは年老い、病にかかり、死ぬであろう。・・・・食べたり飲んだりする際に注意しなさい。わたしは七日後にまた来る」』。
 『悪魔が男と女のもとに来て、彼らに、
 「なぜあなたがたはここにいるのですか」
 と聞いた。すると二人は、
 「私たちの父が、私たちをここに置いたのです」
 と答えた。再び悪魔は、
 「あなたがたは何を食べるのですか」
 と聞くので、二人は、
 「私たちの主ヤァは食物をつくって下さいました。無制限にあります」。
 と答えた。
 「それを見せてください」
 と聞く悪魔に対して、二人は指さしながら答えた。
 「これはうまくないですが、これは甘いです。これは酸っぱく、あれは辛いです。これには風味があります。またあれは火のように辛いですよ。でもこの木の実については、甘いか酸っぱいかわからないんです。私たちの父、主なるヤァがこう言われたからです。『この木から取って食べてはならない。もし食べるならあなたがたは死ぬであろう』」。
 『・・・・すると悪魔は言った。
 「そうではありません。私の子たちよ。ヤァはおっしゃいませんでしたが、この木の実は最もおいしくて、豊かなのです。・・・・それを食べるなら、奇跡的な力を持ちます。天にまでも昇るような気分になるでしょう・・・・。私はあなたがたを愛しているので、真実を言います。隠したりしません。もし私を信じないなら、食べなくてもよいのです。しかしもし試しに食べれば、あなたがたはすべてを知るようになるでしょう。・・・・」』

 この記録によると、男のアナイ(アダム)はこのあと悪魔の誘惑を断ってその場を去りますが、女のエゥ(エバ)は誘惑されるままに食べます。そしてその後夫にも言って、結局夫も食べてしまうのです。老預言者の語りは、さらに次のように続きます。

 『女は戻って、悪魔に言った。
 「夫も食べました」。
 すると悪魔は高笑いして言った。
 「哀れな男女よ。お前たちはもう私のものだ。私の声に聞き従ったのだから」。
 次の朝、ヤァは二人のもとに来られた。しかし二人は、いつものように讃美の歌をもってヤァにつき従うことをしなかった。ヤァは二人に近づいて言われた。
 「なぜあなたがたは、わたしが『食べてはならない』と命じておいた木から、実をとって食べたのか。・・・・あなたがたは年老い、病にかかり、死ぬであろう」。・・・・
 人は、のろいのもとに置かれ、ヤァは彼らから去られた。・・・・やがて病が人に現われるようになった。
 アナイとエゥの間に生まれた子の一人は、病の床に伏した。そのとき二人は互いに言った。
 「・・・・私たちがどうすべきかを、悪魔に聞いてみよう」。・・・・
 彼らは悪魔のところへ行って言った。
 「私たちは、あなたの言葉に従って食べたのです。私たちの子は病気です。・・・・どうしたらいいんですか」。
 悪魔は答えて言った。
 「お前たちは、お前たちの父、主なるヤァの命令に従わず、私に従った。一度私に従ったからには、最後まで従いなさい」』」。

 アロンゾ・バンカーの記録は、さらにこう続きます。

 「老預言者は、先祖代々伝わるこうした話をしながら、さらに、悪魔が人に指導して与えた風習について語る。悪魔は人に、様々の病を取り除くために、悪霊を鎮める供え物をしなさいと教えたという。
 また、悪魔は、鳥の骨を占いに用いることを人に教えたという。この占いの方法は、高地の民族によく見られるものである」。

 このようにカレン族では、悪霊を鎮める供え物や占いは、悪魔からのものであるとして、忌み嫌われています。


カレン族の男性。


なぜ聖書の記録に酷似しているのか

 カレン族の集会の模様を記したこの記録を読むとき、私たちは、老預言者の語りがあまりに聖書の内容によく似ていることに驚きます。しかし、彼は聖書を読んでこのように語っているのではないのです。
 カレン族の長老たちは、先祖代々言い伝えられてきた教えを忠実に語っているに過ぎません。これは果たして偶然でしょうか。
 いいえ、偶然ではあり得ません。
 聖書によれば、大洪水の際に箱舟で救われたノアは、アダム以来先祖代々伝えられてきた創世記一~三章の内容を、自分の子セム、ハム、ヤペテたちにも教えこんだはずです。
 そして大洪水後、バベルの塔を経て、セム、ハム、ヤペテの子孫たちが全地に散らばっていったとき、創世記一~三章と同じ内容が各民族に言い伝えられていきました。
 そのうち、アブラハムの子孫であるイスラエル民族には、のちに聖書としてまとめられた文書を通し、それが最も正確に伝えられていきました。
 しかし他の民族においては、口伝によったということと、人々の多神教への堕落等によって、多くの場合は物語の変質や、消滅等が起こりました。
 とはいえ、幾つかの民族においては、その後も長い期間にわたって、創造と堕落の歴史に関する事柄が、あまり変質することなく、ある程度の純粋さを保ちながら伝えられていったのです。カレン族に代々伝わる唯一神信仰も、その貴重な例の一つです。
 カレン族には、未来に関する次のような詩歌もあります。

 「定められた時になると、ヤァが来られる。・・・・死んだ木が芽吹き、花々が咲き乱れる。・・・・」

 「良き人々は、銀色の町に来る。
 義なる人々は、新しい街に来る。
 父と母を信じる彼らは、金色に輝く宮廷を楽しむ。
 カレンの王(メシヤをさす)が来られるとき、彼は地上でただひとりの君主となる。
 カレンの王が来られたとき、もはや金持ちも貧乏人もない」。

 また、カレンの長老たちは、常に次のような箴言を朗唱し、部族の者たちを偶像崇拝や多神教から守ってきました。

 「子たち、また孫たちよ。
 偶像やその祭司たちを拝んではならない
 拝んでも、何の利益もない。
 ただあなたの罪を積み重ねるだけである」。
 「子たち、また孫たちよ。
 ヤァを愛し、その御名を
 みだりに唱えないようにしなさい

 もしみだりに唱えるなら、
 彼は遠くに行ってしまわれる!」。
 「子たち、また孫たちよ。
 喧嘩や口論を好まず、
 互いに愛し合いなさい
 天にいますヤァは、
 私たちを見ておられる。
 もし私たちが互いに愛し合わないなら、
 それはヤァを愛さないことと同じである」。
 「子たち、また孫たちよ。
 もし私たちが罪を悔い改め
 悪を行なうことをやめ、
 欲望を抑え、
 ヤァに祈るなら、
 彼は再び私たちを憐れんで下さる。
 もしヤァが憐れんで下さらないなら、
 ほかにそれを出来る者はいない。
 私たちを救い得る者、
 それはヤァおひとりである」。
 「子たち、また孫たちよ。
 いつもヤァに祈りなさい。昼も夜も」。


カレン族の住居。日本も、
昔は多くの家がこうだった。


彼らには失われた書物の記憶があった

 さらに驚くべきことがあります。それはカレン族は、自分たちの持っている唯一神信仰は不完全なものであって、やがて白人のもたらした書物によって完全なものとされると信じていたことです。彼らの詩歌に次のようなものがあります。

 「ヤァの子らである外国の白人が、
 ヤァの言葉を持っていた。
 外国の白人で、ヤァの子らが、
 昔ヤァの言葉を持っていた」。

 また、次の話も伝わっています。一八三〇年頃、サウカァラというカレン人が、旧ビルマの英国領事館において、自分の民族のルーツについて語りました。それによると、カレン族はもともとはヨーロッパ人と兄弟民族だったというのです。
 大昔の先祖から出た弟がヨーロッパの白人となり、兄がカレン族その他の部族を形成したということでした。
 そして、弟の白人は真の神に関する記録を書物として注意深く保存したが、兄のほうは、ならず者だったのでそれを失ってしまった。だから、いつの日か白人は、船に乗ってカレン族のもとに来てくれるだろう、そして真の神に関する本をもたらし、神の知識を回復してくれると信じているとのことでした。
 実際、その回復の時はやって来ました。一八一七年、敬虔なアメリカ人宣教師アドニラム・ジャドソンが旧ビルマにやって来たのです。彼は船でやってきました。そしてその手には、一冊の聖書がかたく握られていたのです。
 ジャドソンの宣教は、はじめはほとんど実を結びませんでした。ほとんど回心者が起きなかったのです。しかし彼は、聖書をビルマ語に翻訳する仕事にかかりました。このビルマ語聖書が、のちにカレン族の大リバイバルのもととなったのです。
 ある日、コタービュというカレン人が回心して、クリスチャンになりました。コタービュは、ジャドソンや、新たに到着した宣教師ボードマン夫妻らを手伝いながら、驚くべき早さで聖書を学習していきました。


アドニラム・ジャドソン。彼の宣教は、
最初ほとんど実を結ばなかったが、
やがて彼の訳したビルマ語聖書が、
爆発的なリバイバルのために用いられた。

 コタービュは、聖書こそ、カレン族に昔から言い伝えられてきたあの”失われた書物”であることを悟りました。コタービュは熱烈な伝道者に成長し、旧ビルマ中をまわって、カレン族の部落で、父なる神ヤハウェと主イエスの福音を説いてまわったのです。
 カレン族の人々の反応は、すさまじいばかりでした。”ヤァの本”からのメッセージは、スポンジが水を吸収するように、彼らの心の中にストレートに入っていったのです。
 カレン族が民族をあげてクリスチャンになるのに、多くの時間は必要ありませんでした。今日も、彼らはキリスト教の信仰に立っています。
 カレン族に大リバイバルが起きたとき、旧ビルマの仏教指導者は驚いてこう言いました。
 「我々仏教徒は、カレン族を仏教徒にするために大変な努力を積み重ねてきたのに、ついに成功しなかった。ところがキリスト教の宣教師たちは、我々が何世紀にもわたって出来なかったことを、わずか数十年で成し遂げてしまったのだ!」。
 じつは、大リバイバルが起こったのは、カレン族だけではありませんでした。同じ旧ビルマのカチン族にも起こったのです。じつはカチン族にも、自分たちの先祖は聖なる書物を失ったとの伝説がありました。
 リバイバルはその後、さらに周辺のラフー族や、ワ族等にも及びました。そしてカチン、ラフー、ワ族等にも、カレン族と同様、先祖伝来の信仰がありました。それは、天地宇宙の創造主なる唯一神への信仰だったのです!

[参考図書]
“Eternity in Their Hearts” Don Richardson, Regal Books USA

マナセ族

アミシャブの見解

マナセ族は、BC457年に再びペルシャに捕囚され、ペルシャ王ダイレオスとクセルクセス(アハシュエロス)の支配下に置かれた。BC331年にアレクサンドロス大王がペルシャ、アフガニスタン、インドを征服すると、10支族はアフガニスタンなどに離散し、そのころから彼らは偶像崇拝者になった。(その後、イスラム教の支配により強制的にイスラム教に改宗させられたが、長老や祭司はトーラーを隠し持っていたといわれる。)
  一部は中国中央部まで行き、BC231年に現在の中国の開封(河南省)にユダヤ人居留区を作った。中国においてユダヤ人は奴隷同然の扱いだったので、同化を嫌い山岳地帯へ”洞人”や”山人”として洞窟生活を送った人々もいた。(陸のシルクロード時代が廃れる18cまでは、開封はユダヤ人交易商人で栄えた) 18世紀にはこの中国からの難民はインドのマニプル州とミゾラム州へ移動した。

インド・ビルマ国境  シンルン族(ブネイ・メナシェ。メナシュ族)

アミシャブの見解

シンルン族は人口100~200万人で、インド-ビルマ国境の山岳付近(インド側はミゾラム州、マニプール州、ナガランド州、アッサム州、トリプラ州、ビルマ側はチン州のティディム地域)に住んでいる。彼らの伝承によれば、中国からタイとビルマを通って逃亡してきたのであり、途中で持っていた聖典の巻物も奪われてしまったという。シンルン族は、ビルマでは「ルシ(=10の支族)」と呼ばれ、歌や祈りのことばには「マナセ」という名前が出てくる。これは、彼らがマナセ族の末裔であることを物語っており、シンルン族はユダヤ教に回帰し、イスラエルに帰還することを望んでいる。(すでに一部はイスラエルに移住し、ユダヤ教に改宗している。)

中国四川省・チベット国境  羌岷(チャンミン)族 (チャン族)

アミシャブの見解

チャンミン族は人口約25万人で、中国四川省中国-チベット国境のミンコウ付近に住んでいる。彼らは一神教を信仰し、部分的に戒律に従い、ユダヤ起源の伝承も多い。第一神殿の時代の犠牲を捧げる習慣がある。ただし、セム系の外見的な特徴はほとんど残っていない。

*このチベット系民族の羌(タングート、蔵人)は、384年(-417)後秦を建国したと言われている。

wikipedia

チャン族は古代から中国史に名を残す異民族であり、古くは代の甲骨文字の中に、人に関する記載がある。古代の羌人は分布が広く、中国の西北,西南,中原の一部の地方にもその活動が見られた。その後、時代を経て古代羌人の一部は現在のチベット・ビルマ語族の中の各族に発展変化し、別の一部はその他の民族、とくに漢族と融合した。ただ、岷江上流域の渓谷に生活する一部の羌人はさまざまな要因によって今日までその姿をとどめている。

2008年四川大地震で激しい被害を受け、チャン族の文化は保護復興事業の対象にされている。

生活

チャン族はおもに農業に従事し、牧畜業も兼ねる。特に井戸掘りと石造建築物の構造技術に長じる。また伝統的な「アニミズム」が信仰されており、宗教生活におけるタブーも存在する。たとえば子供が生まれると、鬼を連れてくる恐れがあるので、面識のない人が部屋に入ることをもっとも忌む。そのために入口に赤い旗をかけて見知らぬ人の立ち入りを禁止する。もし家畜の豚,羊,牛などが子供を産むと、産まれた家畜の数と同数の棒を敷居に束ねておく。それは見知らぬ人の立ち入りを忌むことを示す。もし見知らぬ人が入ると、母親の家畜の乳が出なくなると考えている。子供たちは魔よけのために普段、銅の鏡をかけ、帽子にホラ貝をつける。また、見知らぬ人がこれらの物にも触ってはならない。台所の鉄の五徳を脚で踏んではならない。さもないと、天神を怒らせることになるためである。許(シュイ:シャーマン)を招いて病人のために鬼祓いをしてもらう場合、他人は室内に入ってはならないため、その家の門前にしばしば麦わらで作った人形や馬などを目印として置いておく。戊の日には畑を耕してはならない。戊が土に属し、耕作すれば土を犯すことになると考えられているためである。以上のように「アニミズム」の宗教がチャン族の生活に極めて重要な影響をもたらしている。

宗教

アニミズム

チャン族は古代族の時代から脈々と受け継がれてきた原始宗教である精霊・多神崇拝(アニミズム)を信仰している。彼らの精霊・多神崇拝というのはいわゆるアニミズム的観念であり、全ての人間には霊魂が宿っていて、それが外界の物事に推し及ぼし、あらゆる物,場所に精霊が存在し、行動していると考えた。しかしながら、歴史的に他の外来宗教の流入によってアニミズムにいくらかの影響があり、とくに1月9日の「上元会」、4月8日の「仏祖会」、7月19日の「玉皇会」といった道教の行事が強制されたこともあった。

彼らの宗教は多神教であるため、数多くの神が存在する。その中でも彼らがもっとも崇拝してきたのは「天神(太陽神)」である。天神は万物を主宰し、人間と家畜に禍福を及ぼす神であると考えられた。この天神を主神として山の神,火の神,羊の神,水の神,土地の神と続き、全部で10数種類もの神が存在するが、「万物有霊」の考えから「着物の角」から「体の垢」、「吐息」にいたるまで、ありとあらゆる万物に霊が宿ると信じられている。このように形あるものから形のないものまで崇拝するのであるが、形のない神々に対しては「白石神」といって石英をその神々に見立てて崇拝する。これは彼らの「白石伝説」に基づく考えなのであるが、伝説では強敵の戈基(ガァチィ)人を神の啓示によって倒したチャン族は戦勝を記念して神を祀ろうとしたが、神に形がなかったため、夢(神の啓示)で見た石英を神の象徴として崇めるようになったという。この「白石伝説」はチャン族の儀式で必ずシャーマンによって唱えられ、彼らの神話として語り継がれてきた。

チャン族の宗教で欠かせないのがシャーマン(巫師)である。シャーマンはチャン族の言葉で「(シュイ)」と呼ばれ、生産にも従事している宗教職能者であり、神と通交し、悪魔とも接触するので、人々が祀る神々以外に彼自身の保護神を持っている。彼は民族の歴史や伝説に通じ、さまざまな神話物語と故実の由来などを暗誦しており、各種の記録されていない呪文を唱えることができ、神通力を発揮する法器をもっていた。そのため人々は彼が自然を自在に操る才能を備え、風雨を呼ぶことができ、家畜と作物を繁殖させ、運命の吉凶を変える能力をもっていると信じた。シャーマンはさらに医者でもあり、どのような病気も治療できるとされた。それゆえにシャーマンは長年にわたってチャン族の社会生活で重要な地位を占め、人々の精神上の指導者というべき存在であった。

シャーマンは徒弟制によって養成され、経典がなく、一切の呪文は師匠の口伝にたよる。弟子の数人に制限はなく、伝授は多く夜間に挙行される。その時間は労働後の余暇でもあり、神秘性を添える時間でもあった。その学習は通常3年ないし5年を要するが、全ての呪文を暗誦して使用することができ、一切の儀式を熟知すれば「謝恩儀礼」を挙行して正式に「卒業」が申し渡される。その時になると弟子は師匠を宴会に招き、靴,靴下,衣裳[2]などを謝礼として師匠に贈る。師匠も法器一式を弟子に贈り、弟子が独立することを許可する。

ラマ教

チベット族に隣接する赤不蘇(チーブゥスー),三江口(サンチヤンコウ),九子屯(チョウツートゥン)などの地方では、チベット族の支配階級が自己の勢力を扶植するにしたがってチャン族の支配階級と結託し、数か所にラマ教の寺廟を建て、チャン族の民衆にラマ教を信仰するよう奨励督促した。その結果、ある地区ではそれまでのチャン族宗教職能者(シャーマン)が廃絶されてラマ僧に代わり、またある地区ではシャーマンとラマ僧が並立してチャン族の宗教信仰活動上の重要な人物となった。現在でもチベット族の人たちと一緒に暮らしている少数のチャン族の人たちはラマ教を信仰している。

キリスト教

1898年フランス宣教師が茂州城に入り、カトリック教会堂を建てる。1909年プロテスタントが茂州に伝わり、つづいて1911年汶川県理県などの地区に伝わり、茂州,威州,薛城,雑谷脳などの地区に教会が建てられた。1942年、「中華基督教会」の「辺疆服務部」が威州に事務所を開設し、その勢力は雑谷脳,薛城,雁門,佳山,通化,茂県などのチャン族,チベット族の雑居地区にまで伸展した。以上のいろいろな外国宗教勢力は学校を作り、医療を行うなどさまざまな恩恵を施して人心を寵絡し、信者になるよう人々を誘導した。さらに「チャン族の信仰する天神はすなわちキリストである」「チャン族と西方の民族とは同種同族である」などといい、キリスト教の影響を拡大しようとした。ただし、実際に外国の宗教を受け入れて信者になるチャン族は極めて少数であり、それも交通が発達し、都市に隣接する地区に限っていた。広範な山村地区では「イエス」というチャン族にとっては耳慣れないものを信奉する者はほとんどいなかったのである。ここにおいてもチャン族のアニミズム信仰の根強さを知ることができる。